毎週やっているラジオ番組に、少し前はおたよりを送っていたのだけど、ここ数週間は余裕が無くて何も送れていない。
それでも毎週聴くだけはしていて、そうするとラジオが始まってから終わるまで、他人のおたよりが読まれるのを聞きながら過ごすことになる。その間、自分のおたよりが読まれることは無い。
今週はそういえば送れていなかったな、という思いと、そもそも送っても必ず読まれる訳ではないしな、という思いが交錯する。
余裕が無いほどやるべきことが有るのは悪いことではないのだけど、少し悲しい気持ちにもなってしまう。
気持ちを言葉にすることは簡単で、でもそれを続けることは簡単ではなくて、生きていると色んな気持ちになるなぁという感想と、もしかしたら死んでも気持ちだけは残り続けたりするのかもしれないなぁという妄想が頭を巡る。
中学の頃、月替りで任意の先生が、何かしら自分の意見を話してくれる会があった。テーマはかなり自由だったのだが、社会科の先生が話してくれたのは「宝くじを買うことを、宝くじを買わない人がとやかく言うのはおかしい」という内容だった。
先生は宝くじを買う派で、それを見た別の人から「どうせ当たりもしないものにお金をかけるなんて」と馬鹿にされたらしい。打席に立たない選択をした人から、「どうせ打席に立ったところで打てないよ」と言われたような感覚。今になるとなんとなく、先生が言いたかったことも理解できる気がする。だからこそ、20年以上前の中学時代の記憶の中で、この話だけが頭に残っているのかもしれない。
打席は実際、いたるところに存在していて、どの打席に立つか、それとも立たないかは個人が決めるしかない。 打席に立たないという選択すらも、別の打席に立つ選択をしているとも言えるような気がする。
ただ、右にボールを飛ばしたいのに左向きの打席に立つようでは、自分の思う理想の方向に進むのは難しい。 だからこそ自分の向きたい方向をある程度決め、その方向にできるだけ近づけるような打席に立ち、とりあえずバットを振ることが重要なのだと思う。
あなたは最近、どんな打席に立っただろうか?