もう人間の目には、写真かそうでないか区別できないところまできているらしい。
ところで一方、最近はAI・人工知能といった単語を耳にする機会が増えてきた。
「不気味の谷」といえば主に見た目に使われる言葉だけど、「知性」にも同じことが起きるのだろうか。
不気味の谷とは
そもそも不気味の谷とは何なのか。
wikipediaを見るとこう書いてある。
ロボットがその外観や動作において、より人間らしく作られるようになるにつれ、より好感的、共感的になっていくが、ある時点で突然強い嫌悪感に変わると予想した。
不気味の谷現象 - Wikipedia
つまり、ロボット(もしくはグラフィック)などの見た目のクオリティが上がりすぎると、「綺麗」を通り越して「気持ち悪い」と感じる地点があるということ。
ただしそれが更に進むと、人間の目では通常の生物との区別がつかなくなり、この現象は薄れていくと言われている。
冒頭に乗せた記事にある画像では、綺麗な一人の女子高生が写っている。
これはただの3Dグラフィックであり、現実の女の子の写真ではない。
でもこの女の子はかなりリアルに表現されていて、少なくとも私にとっては、嫌悪感や気持ち悪さを抱く地点を超えているように感じられた。
とすれば確かに、この画像は「不気味の谷を超えた」と言うことができる。
これから技術が更に進化すれば、服や表情に感じる微妙な違和感すら無くなり、本当に現実写真と同じ表現レベルとなるのだろう。
その現象は知性にも起きるのか
少なくとも画像の見た目だけで言えば、その品質は人間の判断が難しいレベルに達している。
そして昨今の技術力は、「知性」という、今までは生物のみに与えられていた力をも作り出そうとしている。いわゆる人工知能のことだ。
ではその人工知能が進化していく中で、そこには画像の時と同じように「知性の不気味の谷」が存在し得るのだろうか。
たとえば「見た目の不気味の谷」を超え、見た目だけでは人間か否か判定できないロボットができたとしよう。
その時、どんなに見た目が人間らしかろうと、発する言葉が拙ければ、もしくは行動が"人間らしく"なければ、私たちはそれを「人間でない」と容易に判断することができる。
じゃあ、中に入っているのがSiriだったらどうだろうか。
最近のSiriは高性能で、人間から見ても「気の利く」回答を返してくることが多い。
それが更に進化したものであれば、普通に2、3回言葉を交わした程度では、それが機械だと気づかないかもしれない。
だとしたら、長い会話のどこかで違和感を覚えた時に、「人間じゃないと応答できないような質問」をしてみて、そこでやっと機械だと判断することになるだろう。
そんな体験をした時、私達はどう感じるのだろうか。
単におどろき、技術に感心するだけだろうか?
私は多分、そこにもある種の「嫌悪感」が生まれるのではないかと予想する。
人間と同じ見た目でありながら、人間の理解を超えた動きをするもの。
それは私達が普段「猟奇殺人」「大量殺人」というようなニュースを見て感じることとどう違うだろうか。
「サイコパス」という言葉が嫌悪の対象となるように、「人間はそんなことしない」と思われる行動、つまり自分の理解の外にある行動を相手がとった時、少なくとも私達は違和感と共に嫌悪感を感じているのではないだろうか。
そう考えるとやはり、知性における「不気味の谷」というものがどこかに存在する可能性は、結構高いのだと思う。
さいごに

人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの (角川EPUB選書)
- 作者: 松尾豊
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/中経出版
- 発売日: 2015/03/11
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (26件) を見る
今日はこの本を買ってきた。
厳密に言うと、2015年2月現在の人工知能はいわゆる数学的計算の発展系のようなものであって、人間の知性とは全く別の仕組みである。
しかしそれがどんどん高度になっていけば、冒頭の画像と同じように「人間には区別できないような、知性に似た何か」が出来上がるのかもしれない。
そうなった時、私たちは「不気味の谷」を感じることができるのか、それともそんなことを感じる隙もなく、人工知能と共に自然に過ごし続けるのか。
そういうことを考える時代が来ている。