まさおまっさお

おいまさおがんばれまさお

今日はなぜ「今日」であるのか

いつも不思議に思う。

いつか誰かが決めた「1日」という区切りがあり、それは全人類でほぼ明確に共有されている。

もちろん時差などの話もあって現実的には少しのズレがあるが、それでも他国の人が日本にやってきた場合には日本の「今日」を共有しながら生きているように思われる。

実際には時間には区切りがある訳ではなく、常に流れ続けているものなのだから、「今日」とか「明日」というタイミングは人間が明確に決めない限り存在しないものとなる。

その場合、恐らく「川の上流」という言葉も同じく持っているような、どこまでが上流で、どこからを中流や下流として扱うのか、それが明確になっていないのと似たような感じで、「今日」という言葉は、もっと感覚的で曖昧なものとなり、私たちの生活の中に自然と溶け込んで使われていく言葉になった可能性もある。

しかし、現実には「今日」や「明日」という境目はそれなりに明確に決まっていて、世界的にはグリニッジ天文台だかどこかが「今日だよ」と言ったとたんに今日という日は強制的に始まってしまうことになっている。

不思議。

最近日本ではこの記事のように、オリンピックに向けてサマータイムの導入を検討していたりする。

東京五輪終わっても「サマータイム」恒久的運用へ 議員立法による成立を目指す : スポーツ報知

これはもちろん、私のような いちSE から見れば迷惑でしかない話であるのだけど、そもそも検討されているサマータイムの内容に大した興味も湧かないし、たとえそれで一時的に何時間か時間がずらされたところで、結局夏が過ぎればいつかは、『どこかの天文台が「今日だ」と言ったタイミングが今日である』ような日常に戻るのだろうなと思うと逆に感慨深くなってきたりもする。

個人的には、今日とか明日とか明後日とか、そんなのいつでも良くて、ただ今を生きている実感を持てればそれ以上の面倒なことはあまり考えたくないな、と思ったりもする。

でもそうはいかないのが世の中の難しい所。

時計や日付を意識せずに作れるシステムは稀。

SEとして生きている以上無駄なサマータイムなんていう制度はやめて、せいぜい「今日は8時のことを6時って呼ぼうぜ。俺らの頭の中だけな」とかそういう、小学生が休み時間とかに遊びでルールを考え、そして間違って指摘し合いながら笑っている感じの、平和な世の中になって欲しいなと思う今日このごろ。

今、『今日この頃』、という言葉にも「今日」が含まれていて絶望した。それも、今日。