まさおまっさお

おいまさおがんばれまさお

そういう人生、どういう人生

自分は今思い返すと、かなり運の良い人生を歩んできた気がする。

周囲の人には恵まれてきた気がするし、数年ごとに仕事上のチャンスが巡ってきた気がするし、よく思い返しても、悪くない人生を送ってきていると思っている。

しかし、それは一体いつ「悪くない」と判断できたのであろうか。

自分が何か人生の判断をした時、それは大きな判断であろうことは分かっていたとしても、それが「良い判断かどうか」というのはその場ではよく分からないことが多い。

大きければ大きいほど、良いか悪いかの判断材料も多く複雑になっていき、結局判断はできない状況に陥る。

ただ、一定の、切りの良いタイミングになってから振り返ると、そこには「あの判断は良かったのか」という過去への問いに対する、ある程度の明確な答えが見えていたりもする。

私の場合は、今までの人生の転機の数に対して、「その時の判断を良かったとできる回数」が結構多いということなのだと思われる。

その当時の私になって考えると、大抵大した理由もなく勢いで考えて行動していた記憶がある。

でも、今改めて考え直しても、その判断は大体「そうして良かったな」と思える方を選択できていたように感じる。

これは、よく考えるととても幸せなことではないだろうか。

過去を見て不満を言わずに済んでいること。

これは、もしかすると「現状に不満を言わずに済んでいること」よりも、実はもっと難しくて運のよい人生なのかもしれない。

そういう人生を、今までは歩いてこれたのだと思っている。

だとしたら、自分のこれからの人生は、一体どういう人生になるのだろう。

答えの出ない問い。いつか答えの出る問い。むしろ、「いつか答えを作る問い」とも言えるかもしれない。

それが、今自分が生きている、この人生のような気がする。

草を生やす、という言葉を生んだのは誰か

w←これを草と呼び始めたのは一体誰だろう。

おそらくネット上の誰かだろうが、もしかするとその「誰か」は特定の1人ではないかもしれない。

どういうことか。その答えは自分の日常にも眠っている、世の中ではよくある事に由来する。

例えば、私は最近パズドラをやっていて、「ヨグソトース」というモンスターを知った。

初めて見たその時から、私の頭の中にはずっと「ヨーグルトソースみたいだな」という無意識な連想がなされ、それが中々離れない。

かといって、それを周囲に漏らしたことは無かったのだが、数日経ってから嫁からこんなことを言われた。

「ヨグソトースっているじゃん?あれヨーグルトソースみたいだよね」

更に、それと同じような発言はこのプレイ動画の中でも見られる。

試してはいないが、「ヨグソトース ヨーグルトソース」とGoogle先生に聞けば恐らく沢山の答えが返ってくるのだろう。

このように、ある1つの物事を別のものに例える言葉は、誰か特別な人間が特別な力をもって作り出すのではなく、日常的な生活の中で様々な人々が無意識に連想していった結果が世の中に滲み出して来た結果だと捉えることができる。

そう考えると、単一の「w」ではなく「wwwwwww」と連続している小文字のダブリューを見て、それを「草のようだ」と感じた人間は恐らく世の中に沢山いて、その多くの人たちの共通認識がインターネット上での新しい言葉遣いとして発展し、より多くの人たちに使われるようになっていったのだと思われる。

なんと面白い仕組みだろうか。



ちなみに、私が以前作った「カーソルを乗せると動き出す芝刈り機」の実装はこちらです。

See the Pen Grass Cutter by masaoblue (@masaoblue) on CodePen.


人の行為を抑えるのではなく、それをされても問題のない世の中でありたい

駅を歩いていると、色々なところで「歩きスマホはやめましょう」というフレーズを見かける。

スーパーなどで買い物している時も、店内放送で「歩きながらのゲームはやめましょう」と言っているのを聞く。

確かに都会の、人が集まっている場所で、前方に目を向けずに歩き続ける行為は安全とは言い難い。

人はなぜ歩きスマホをしてしまうのか。

理由は様々あると思うが、私の場合は単純に「移動している間に見たい情報があるから」な気がする。

会社からの帰り道は、複数のパターンは有れどほとんど毎回同じ道をたどっている。

回り道して帰ればいつもと違う風景を探し、それを刺激にすることもできるだろうが、そこにそんな時間は使いたくない。

だからといって同じ道を歩いてしまうと、変わるのは大体人の量と着ている服くらいで、景色は殆ど毎日同じである。

そんな同じものを見続けるよりも、スマホでニュースやツイッターでも見ている方がよほど面白い。

少なくとも、多くの日に私はそのように感じているから、つい歩きながらもスマホに手を伸ばしてしまっている。

ただ、その欲求自体は大して珍しいことではなく、「人を殺したい」とか「物を盗みたい」とか、本質的に他人に迷惑をかける行為でもない。

にもかかわらずそれが咎められるのは、今の世の中で歩きスマホをすると、人にぶつかったり、ホームから落ちそうになってしまったりと色々な問題を発生させるからだと思われる。

ここで1つ疑問がある。

それは、「歩きスマホは危ないから禁止する」のが良いのか、それとも「歩きながらスマホを使っても大丈夫な世の中を作る」が良いのか、どちらなのかということだ。

前者は人間の欲求を抑えさせることで成り立つ"ルール"であり、後者は人の欲求を満たすための"仕組み"であると言える。

そう考えた時、私はどちらかというと、人の欲求を満たすルートについて考える方が好きだ。

だから「どうやったら歩きスマホを無くせるか?」と聞かれた時よりも「安全な歩きスマホって何だと思う?」と聞かれた方がテンションが上がる。

その場合、解決方法は「障害物にぶつかりそうになったら振動で教えてくれるスマホ」かもしれないし、「人とぶつからない方向に足を動かしてくれるジーパン」かもしれないし、もしくはもっとぶっ飛んで「人間を透過して貫通できるマント」とかそういう話かもしれない。

いずれにせよ、選択肢が夢幻にあることを考えるのは楽しいし、その結果周囲の人間が迷惑を被らなくなり、かつスマホを使いたい人は歩きながら新しい情報を得られるような、そんな解決方法は無いかと妄想するのは私にとって結構楽しい時間なのである。

だから、暇な人が歩きながらスマホ使っても大丈夫で、急いで移動したい人がエスカレーターを走っても問題なく、暑い車内では自由に扇子を使っても誰にも不快がられないような、そんな世の中になったら良いな、と思う今日この頃。



本当は「労働なんかせずに一生ゲームしまくりつつ良い家に住んで美味しいもの食べて生きてたい」という欲求をそのまま満たしてくれる世の中だったら良いんだけど、それは多分まだ結構先の未来なんだろうなぁ。

自分の未来をどう描くか

未来に先回りする思考法

未来に先回りする思考法

最近これを読んでいる。

未来に先回りする思考、つまりは今まで現実に起こったことのうち、パターン化できる部分を明確に捉え、今後どのような変化がどんなタイミングで起きるかをある程度予測して考えること。

私は最近自分の未来のことについて考えているつもりだったけど、結局は物凄くぼんやりと「これしたいな」「あれやろうかな」と考えているくらいで、実際にそれに取り組む時期や内容について真剣に考えたことはまだあまり無いように感じる。

このままで本当に大丈夫だろうか。

少しずつでも、未来を見る練習をするべきではないだろうか。

別の話

この本が出たのは2015年の本にもかかわらず『「リーンスタートアップ」ではもう勝てない理由』という章があって衝撃を受けた。

今まで自分が見てきた日本企業の多くは「リーンスタートアップ」や「アジャイル開発」という、IT業界の大きな波に乗り遅れているように感じた。

にもかかわらず、世の中はとっくの昔に更に先に進んでいるのかもしれない。

「新しいことを素早く試してみる」という、今の時代に合ったやり方を取り入れることができなければ、企業も、そして自分も、いつまで経っても今のままになってしまいそうだ。

変化しなければ生き残れない世の中は、一体いつまで続くのだろうか。

二兎追うものは一兎をも得ず

よく言うやつ。

これはある意味で正しいけど、常に正しい訳ではない。

二兎追うことが無ければ生まれないものもあるし、二兎を追わなければほぼ確実に、常に一兎ずつしか仕留めることはできない。

二兎を追うことができるか、もしくは何も得ないか、という0か1かに賭けてみることは場合によっては良い可能性もある。

特に最近は、世の中がどんどん進化している。

気づけば槍で動物を1匹ずつ突く時代は終わり、散弾銃で数匹纏めて仕留める時代を経て、大きな網でそこら中の獲物を一気に確保したり、もしくは自分ではなく機械を使うことにより自分自身の力は何一つ使わずにより多くを得ることもできるかもしれない。

そんな時代に、自分はどのように生きたいだろうか。

答えはきっと、走り続けた後で振り返った時に見つかる。



このツイートを見て、私はなるほどと思った。

自分のやりたい仕事ではないことを全力で行うと、周囲からはそれを押し付けても大丈夫な人間だと認識され、結果として自分の時間を奪われてしまうこともある。

特に研究者のように一つの仕事に没頭しなければならないような職種であれば尚更、他にかまけている時間など無く、いかに集中力を高めて臨むかが重要なことも多いのだろう。

ただ、ふと思い返せば「雑用は本気でこなせ」的な格言もあったように思う。

それはつまり「雑用をしっかりこなせる=仕事もできる」という、よく言うハロー効果的な、1つが出来ると他のことも出来ると思い込まれてしまうような、そういった効果を狙って自らの価値を上げていく手法なのだと思われる。

このような2つの考えを並べた時、1つだけ分かることがある。

それは「万人に正しい道は無く、自分で正しいストーリーを作り上げるしかない」ということだ。

「雑用」という一見本業とは関係の無さそうな仕事に対し、本当に「関係無い」と切り捨ててしまうのか、それとも「本業を充実させるための一部」とみなして良いように扱うのか。

どちらも間違いではなく、重要なのは自分がどのような立ち位置に置かれていて、これから何をすることが一番自分の理想に近づけるかを考えることが必要に感じる。

優秀な研究者であれば「雑用をなるべく減らして研究に打ち込む」ということが自分の価値を最大化する方法かもしれないし、逆にスキルの無さを自覚している新人SEであれば「全てに真摯に取り組んで周囲からの信頼を得る」という方法が成功への近道となるかもしれない。

結局のところ、自身がどうしたいのかを常に考え、信じる道を進んでいくしか無いということなのだと思われる。

だとしたら、私が今信じている道はどこにあるだろうか。

それをこの先、見失わないで進むことができるだろうか。

今のところはまだ、分からない感じがする。

今日はなぜ「今日」であるのか

いつも不思議に思う。

いつか誰かが決めた「1日」という区切りがあり、それは全人類でほぼ明確に共有されている。

もちろん時差などの話もあって現実的には少しのズレがあるが、それでも他国の人が日本にやってきた場合には日本の「今日」を共有しながら生きているように思われる。

実際には時間には区切りがある訳ではなく、常に流れ続けているものなのだから、「今日」とか「明日」というタイミングは人間が明確に決めない限り存在しないものとなる。

その場合、恐らく「川の上流」という言葉も同じく持っているような、どこまでが上流で、どこからを中流や下流として扱うのか、それが明確になっていないのと似たような感じで、「今日」という言葉は、もっと感覚的で曖昧なものとなり、私たちの生活の中に自然と溶け込んで使われていく言葉になった可能性もある。

しかし、現実には「今日」や「明日」という境目はそれなりに明確に決まっていて、世界的にはグリニッジ天文台だかどこかが「今日だよ」と言ったとたんに今日という日は強制的に始まってしまうことになっている。

不思議。

最近日本ではこの記事のように、オリンピックに向けてサマータイムの導入を検討していたりする。

東京五輪終わっても「サマータイム」恒久的運用へ 議員立法による成立を目指す : スポーツ報知

これはもちろん、私のような いちSE から見れば迷惑でしかない話であるのだけど、そもそも検討されているサマータイムの内容に大した興味も湧かないし、たとえそれで一時的に何時間か時間がずらされたところで、結局夏が過ぎればいつかは、『どこかの天文台が「今日だ」と言ったタイミングが今日である』ような日常に戻るのだろうなと思うと逆に感慨深くなってきたりもする。

個人的には、今日とか明日とか明後日とか、そんなのいつでも良くて、ただ今を生きている実感を持てればそれ以上の面倒なことはあまり考えたくないな、と思ったりもする。

でもそうはいかないのが世の中の難しい所。

時計や日付を意識せずに作れるシステムは稀。

SEとして生きている以上無駄なサマータイムなんていう制度はやめて、せいぜい「今日は8時のことを6時って呼ぼうぜ。俺らの頭の中だけな」とかそういう、小学生が休み時間とかに遊びでルールを考え、そして間違って指摘し合いながら笑っている感じの、平和な世の中になって欲しいなと思う今日このごろ。

今、『今日この頃』、という言葉にも「今日」が含まれていて絶望した。それも、今日。