まさおまっさお

おいまさおがんばれまさお

時期が過ぎたクリスマスツリー

昨年の終わり、クリスマスの直前に我が家ではクリスマスツリーを飾った。

3年ほど前に購入した、高さ150cmのもみの木。ツリー自体は意外と安く7500円とかそれくらいで、でも色を変えられるLEDとかオーナメントとか揃えると、結局2万円くらいになった気がする。

それだけのお金をかけているのに、クリスマスだけしか表に出さないなんて勿体ない。せめて年を越すくらいまで飾っておこう。

と思っていたら早4月、ツリーは未だにうちの今に高々と聳え立っている。

このまま今月を終え、5月まで飾り続けておけば平成と令和の両方を体験したクリスマスツリーということで、うちのツリーの価値が突然爆上がりしたりしないだろうか。

まぁ例えそうなったとしても、どうせ今年も使うのだから売りに出したりはしないんだけど。

ただ、よく考えると今年のクリスマスまではあと8ヶ月と少し。
クリスマスイブイブイブ…的な数え方をできなくもない期間だ。

どうせ11月になったら、世の中のスーパーやらイベント会場はどこもクリスマスっぽい感じになるのだし、そう考えるとあと7ヶ月程度。

それならいっそ今年は片づけず、このまま丸一年継続して屹立していて貰うのも面白いことなのかもしれない。

もし1年間、365日表に出続けているクリスマスツリーがあったら、それは本当にクリスマスツリーなんだろうか。

もし装飾を外し、ただの木として立っている間の方が長いのだとしたら、その木はクリスマスツリーではなくただのもみの木になるんだろうか。

もし装飾をしていたとしても、正月にも、ゴールデンウィークにも、お盆にもずっと立ち続けている木はクリスマスツリーと呼ばれるんだろうか。

もしそうだとしたら、仮に装飾をしていないもみの木が12月25日に存在していたら、それはクリスマスツリーともみの木のどっちなんだろうか。

クリスマスツリーであり、もみの木でもある、というのが正しい答えかもしれないけど、それぞれの場合でどっちの名前で呼ぶ人が多いのかはちょっと気になる。

でも検証する予定はない。

やるべきことを朝にやる

最近、早起きを心掛けている。

睡眠は最低でも6時間取りたいから、可能なら11時に寝て5時に起きたい。
一時期は9時寝3時起きとかもやっていたけど、現状毎日9時に寝るのが現実的ではないので、21:00~7:00までの間に6時間睡眠を取って起床すること、くらいの緩い心掛けかもしれない。

昨日は夜に飲み会があって、お酒は飲まなかったけど帰宅したのが11時過ぎだった。
そこから日課のIIDX練習をやって、小説読みながら寝たのが恐らく12:30頃。今朝起きたのは6:50頃だった。

ここ数週間は少しずつ、趣味以外のリズム作りができてきていて、今日も起きてから今までは読書と英語の勉強をしていた。
近々また忙しくなる可能性があるので、できるだけキープしていけるよう努力しようと思う。

このブログの過去の記事を検索すると、早起きとか朝活に関する記事がちらほら存在する。

やりたい事も増えてきたし、久しぶりに朝型生活に戻していこう - まさおまっさお
ホントに朝活したいなら、夜の生活を見直そう。 - まさおまっさお
あなたは大丈夫!?間違った『朝活』が危険な3つの理由 - まさおまっさお

これだけ何回も書いているというのは、自分は朝という時間に何かしらの思い入れがあって、逆に夜という時間には少しの苦手意識を持っている、という事を表しているのかもしれない。

1日は24時間しか無くて、その中でも基本的には動かせない仕事の時間が8時間も存在している訳なので、残りの時間をどのように過ごすかを全く考えないままだとリズムを作るのは難しい。

例えば労働時間は絶対に8時間と決まっていたとしても、その日の都合によっては切り良い所までやり切ろうとして少し延長してしまったり、もしくは仕事内容が難しくて終わる頃には頭も体もすっかり疲れ切ってしまっていることもある。
そうなると、そこから自分の意志で何かを始めようとするのは中々難しい。

「すぐやる人」と「やれない人」の習慣 (アスカビジネス)

昨日の記事にも書いたこの本の帯には、こんなことが書いてある。

今すぐ動きたくて ワクワクする「仕組み」を作ろう!


そもそも仕事という長時間のイベントが終わった後に「自分の意志で」何かを始めようとするのは、難しくて当然なのだろう。
だからこそ何かを始めてしまう仕組みを事前に用意しておいて、それに乗るだけで思い通りの行動を取れるように準備しよう、という話のように思う。まだそこまで読めていないので、正確な所は分からない。

今日はできれば、ちゃんと11時に寝たい。
と思ったのだけど、よく考えると自分は「11時にベッドに入る」という行動を「自分の意志で」実現させようとしていて、それってつまり上記の本にある負けパターンに自ら嵌りに行っているんじゃないかなと、この文章を書きながら気づいてしまった。

11時にベッドに入らないとPC前の椅子から電気が流れるようにしておこうか。でもそれだと、作るのはワクワクするけど使う時にはワクワクできない気がする。いつもこんなことばかりを考えているから、気づいた時には時間が無くなってしまっている。

安くて美味しいもの

安かろう悪かろう、という言葉がある。

値段が安いものはそれだけ質も悪いだろう、という意味の言葉だけど、その点牛丼チェーン店は凄いなって思う。

どのチェーンに行っても500円もせずに牛丼が食べられるし、味も結構美味しい。少し奮発すれば大盛りになったり、キムチとかチーズとかネギとかいろんなものを乗せることができる。

すぐに出てきたのは「牛丼チェーン」だったけど、よく考えれば他の丼ぶり系のチェーンとか、もしくはロッテとかマックみたいな安いファストフード店とかも、やっぱり凄いと感じる。

すき屋のとろ~り3種のチーズ牛丼が食べたい。
めちゃくちゃ美味しいのでチーズ好きな人はぜひ食べに行ってみて欲しい。

www.sukiya.jp

すぐやる人に、自分はなりたいんだろうか

久しぶりの記事。

特に書きたいネタがある訳ではなくて、つい先ほど久しぶりに隣駅の本屋に出かけ、仕事で必要な本を見繕っていたところ近くにあったこの本が気になり、ふと手に取ってしまった。

「すぐやる人」と「やれない人」の習慣 (アスカビジネス)

「すぐやる人」と「やれない人」の習慣 (アスカビジネス)

後回しにしないですぐにやること。
継続すること。

このブログの過去記事には、そういった綺麗な、そして大事な事を沢山書いてきた。

一時期は結構良い感じに、早寝早起きして毎日運動して勉強して、そして遊んだりもするサイクルを毎日回せていたのだけど、一度仕事が忙しくなってペースが乱れてしまった後はだらだらと過ごすことが増えてしまって、結果として元に戻すことができていない状態だったりする。

そして「後回しにしてしまう」というのは自分が何年も前から自覚していて、でもちゃんと治せていない事のうちの1つであり、だからこそ冒頭の本のタイトルのような言葉を見るとつい興味を惹かれてしまうのだった。

この本の第1章「思考編」の1番目はこんなタイトルだ。

すぐやる人はラクに自分を動かし、やれない人は無理やり自分を動かそうとする。


自分はまだ、自分をラクに動かす方法を知らない。
だからよく行動するために「頑張らなきゃ」と思うし、そう思っている時は大体動き出すまでにかなりの時間がかかってしまう。

自分がすぐ動けるようになるには、何を用意すれば良いんだろうか?
そもそも本当に、自分はすぐ動ける人間になりたいのだろうか?

そういう所をはっきりさせて、後悔しない人生を送れたら良いな、と思ってこの本を買ってみた。

これから少しずつ、読み進めてみよう。

そういう人生、どういう人生

自分は今思い返すと、かなり運の良い人生を歩んできた気がする。

周囲の人には恵まれてきた気がするし、数年ごとに仕事上のチャンスが巡ってきた気がするし、よく思い返しても、悪くない人生を送ってきていると思っている。

しかし、それは一体いつ「悪くない」と判断できたのであろうか。

自分が何か人生の判断をした時、それは大きな判断であろうことは分かっていたとしても、それが「良い判断かどうか」というのはその場ではよく分からないことが多い。

大きければ大きいほど、良いか悪いかの判断材料も多く複雑になっていき、結局判断はできない状況に陥る。

ただ、一定の、切りの良いタイミングになってから振り返ると、そこには「あの判断は良かったのか」という過去への問いに対する、ある程度の明確な答えが見えていたりもする。

私の場合は、今までの人生の転機の数に対して、「その時の判断を良かったとできる回数」が結構多いということなのだと思われる。

その当時の私になって考えると、大抵大した理由もなく勢いで考えて行動していた記憶がある。

でも、今改めて考え直しても、その判断は大体「そうして良かったな」と思える方を選択できていたように感じる。

これは、よく考えるととても幸せなことではないだろうか。

過去を見て不満を言わずに済んでいること。

これは、もしかすると「現状に不満を言わずに済んでいること」よりも、実はもっと難しくて運のよい人生なのかもしれない。

そういう人生を、今までは歩いてこれたのだと思っている。

だとしたら、自分のこれからの人生は、一体どういう人生になるのだろう。

答えの出ない問い。いつか答えの出る問い。むしろ、「いつか答えを作る問い」とも言えるかもしれない。

それが、今自分が生きている、この人生のような気がする。

草を生やす、という言葉を生んだのは誰か

w←これを草と呼び始めたのは一体誰だろう。

おそらくネット上の誰かだろうが、もしかするとその「誰か」は特定の1人ではないかもしれない。

どういうことか。その答えは自分の日常にも眠っている、世の中ではよくある事に由来する。

例えば、私は最近パズドラをやっていて、「ヨグソトース」というモンスターを知った。

初めて見たその時から、私の頭の中にはずっと「ヨーグルトソースみたいだな」という無意識な連想がなされ、それが中々離れない。

かといって、それを周囲に漏らしたことは無かったのだが、数日経ってから嫁からこんなことを言われた。

「ヨグソトースっているじゃん?あれヨーグルトソースみたいだよね」

更に、それと同じような発言はこのプレイ動画の中でも見られる。

試してはいないが、「ヨグソトース ヨーグルトソース」とGoogle先生に聞けば恐らく沢山の答えが返ってくるのだろう。

このように、ある1つの物事を別のものに例える言葉は、誰か特別な人間が特別な力をもって作り出すのではなく、日常的な生活の中で様々な人々が無意識に連想していった結果が世の中に滲み出して来た結果だと捉えることができる。

そう考えると、単一の「w」ではなく「wwwwwww」と連続している小文字のダブリューを見て、それを「草のようだ」と感じた人間は恐らく世の中に沢山いて、その多くの人たちの共通認識がインターネット上での新しい言葉遣いとして発展し、より多くの人たちに使われるようになっていったのだと思われる。

なんと面白い仕組みだろうか。



ちなみに、私が以前作った「カーソルを乗せると動き出す芝刈り機」の実装はこちらです。

See the Pen Grass Cutter by masaoblue (@masaoblue) on CodePen.


人の行為を抑えるのではなく、それをされても問題のない世の中でありたい

駅を歩いていると、色々なところで「歩きスマホはやめましょう」というフレーズを見かける。

スーパーなどで買い物している時も、店内放送で「歩きながらのゲームはやめましょう」と言っているのを聞く。

確かに都会の、人が集まっている場所で、前方に目を向けずに歩き続ける行為は安全とは言い難い。

人はなぜ歩きスマホをしてしまうのか。

理由は様々あると思うが、私の場合は単純に「移動している間に見たい情報があるから」な気がする。

会社からの帰り道は、複数のパターンは有れどほとんど毎回同じ道をたどっている。

回り道して帰ればいつもと違う風景を探し、それを刺激にすることもできるだろうが、そこにそんな時間は使いたくない。

だからといって同じ道を歩いてしまうと、変わるのは大体人の量と着ている服くらいで、景色は殆ど毎日同じである。

そんな同じものを見続けるよりも、スマホでニュースやツイッターでも見ている方がよほど面白い。

少なくとも、多くの日に私はそのように感じているから、つい歩きながらもスマホに手を伸ばしてしまっている。

ただ、その欲求自体は大して珍しいことではなく、「人を殺したい」とか「物を盗みたい」とか、本質的に他人に迷惑をかける行為でもない。

にもかかわらずそれが咎められるのは、今の世の中で歩きスマホをすると、人にぶつかったり、ホームから落ちそうになってしまったりと色々な問題を発生させるからだと思われる。

ここで1つ疑問がある。

それは、「歩きスマホは危ないから禁止する」のが良いのか、それとも「歩きながらスマホを使っても大丈夫な世の中を作る」が良いのか、どちらなのかということだ。

前者は人間の欲求を抑えさせることで成り立つ"ルール"であり、後者は人の欲求を満たすための"仕組み"であると言える。

そう考えた時、私はどちらかというと、人の欲求を満たすルートについて考える方が好きだ。

だから「どうやったら歩きスマホを無くせるか?」と聞かれた時よりも「安全な歩きスマホって何だと思う?」と聞かれた方がテンションが上がる。

その場合、解決方法は「障害物にぶつかりそうになったら振動で教えてくれるスマホ」かもしれないし、「人とぶつからない方向に足を動かしてくれるジーパン」かもしれないし、もしくはもっとぶっ飛んで「人間を透過して貫通できるマント」とかそういう話かもしれない。

いずれにせよ、選択肢が夢幻にあることを考えるのは楽しいし、その結果周囲の人間が迷惑を被らなくなり、かつスマホを使いたい人は歩きながら新しい情報を得られるような、そんな解決方法は無いかと妄想するのは私にとって結構楽しい時間なのである。

だから、暇な人が歩きながらスマホ使っても大丈夫で、急いで移動したい人がエスカレーターを走っても問題なく、暑い車内では自由に扇子を使っても誰にも不快がられないような、そんな世の中になったら良いな、と思う今日この頃。



本当は「労働なんかせずに一生ゲームしまくりつつ良い家に住んで美味しいもの食べて生きてたい」という欲求をそのまま満たしてくれる世の中だったら良いんだけど、それは多分まだ結構先の未来なんだろうなぁ。