まさおまっさお

おいまさおがんばれまさお

自分の未来をどう描くか

未来に先回りする思考法

未来に先回りする思考法

最近これを読んでいる。

未来に先回りする思考、つまりは今まで現実に起こったことのうち、パターン化できる部分を明確に捉え、今後どのような変化がどんなタイミングで起きるかをある程度予測して考えること。

私は最近自分の未来のことについて考えているつもりだったけど、結局は物凄くぼんやりと「これしたいな」「あれやろうかな」と考えているくらいで、実際にそれに取り組む時期や内容について真剣に考えたことはまだあまり無いように感じる。

このままで本当に大丈夫だろうか。

少しずつでも、未来を見る練習をするべきではないだろうか。

別の話

この本が出たのは2015年の本にもかかわらず『「リーンスタートアップ」ではもう勝てない理由』という章があって衝撃を受けた。

今まで自分が見てきた日本企業の多くは「リーンスタートアップ」や「アジャイル開発」という、IT業界の大きな波に乗り遅れているように感じた。

にもかかわらず、世の中はとっくの昔に更に先に進んでいるのかもしれない。

「新しいことを素早く試してみる」という、今の時代に合ったやり方を取り入れることができなければ、企業も、そして自分も、いつまで経っても今のままになってしまいそうだ。

変化しなければ生き残れない世の中は、一体いつまで続くのだろうか。

二兎追うものは一兎をも得ず

よく言うやつ。

これはある意味で正しいけど、常に正しい訳ではない。

二兎追うことが無ければ生まれないものもあるし、二兎を追わなければほぼ確実に、常に一兎ずつしか仕留めることはできない。

二兎を追うことができるか、もしくは何も得ないか、という0か1かに賭けてみることは場合によっては良い可能性もある。

特に最近は、世の中がどんどん進化している。

気づけば槍で動物を1匹ずつ突く時代は終わり、散弾銃で数匹纏めて仕留める時代を経て、大きな網でそこら中の獲物を一気に確保したり、もしくは自分ではなく機械を使うことにより自分自身の力は何一つ使わずにより多くを得ることもできるかもしれない。

そんな時代に、自分はどのように生きたいだろうか。

答えはきっと、走り続けた後で振り返った時に見つかる。



このツイートを見て、私はなるほどと思った。

自分のやりたい仕事ではないことを全力で行うと、周囲からはそれを押し付けても大丈夫な人間だと認識され、結果として自分の時間を奪われてしまうこともある。

特に研究者のように一つの仕事に没頭しなければならないような職種であれば尚更、他にかまけている時間など無く、いかに集中力を高めて臨むかが重要なことも多いのだろう。

ただ、ふと思い返せば「雑用は本気でこなせ」的な格言もあったように思う。

それはつまり「雑用をしっかりこなせる=仕事もできる」という、よく言うハロー効果的な、1つが出来ると他のことも出来ると思い込まれてしまうような、そういった効果を狙って自らの価値を上げていく手法なのだと思われる。

このような2つの考えを並べた時、1つだけ分かることがある。

それは「万人に正しい道は無く、自分で正しいストーリーを作り上げるしかない」ということだ。

「雑用」という一見本業とは関係の無さそうな仕事に対し、本当に「関係無い」と切り捨ててしまうのか、それとも「本業を充実させるための一部」とみなして良いように扱うのか。

どちらも間違いではなく、重要なのは自分がどのような立ち位置に置かれていて、これから何をすることが一番自分の理想に近づけるかを考えることが必要に感じる。

優秀な研究者であれば「雑用をなるべく減らして研究に打ち込む」ということが自分の価値を最大化する方法かもしれないし、逆にスキルの無さを自覚している新人SEであれば「全てに真摯に取り組んで周囲からの信頼を得る」という方法が成功への近道となるかもしれない。

結局のところ、自身がどうしたいのかを常に考え、信じる道を進んでいくしか無いということなのだと思われる。

だとしたら、私が今信じている道はどこにあるだろうか。

それをこの先、見失わないで進むことができるだろうか。

今のところはまだ、分からない感じがする。

今日はなぜ「今日」であるのか

いつも不思議に思う。

いつか誰かが決めた「1日」という区切りがあり、それは全人類でほぼ明確に共有されている。

もちろん時差などの話もあって現実的には少しのズレがあるが、それでも他国の人が日本にやってきた場合には日本の「今日」を共有しながら生きているように思われる。

実際には時間には区切りがある訳ではなく、常に流れ続けているものなのだから、「今日」とか「明日」というタイミングは人間が明確に決めない限り存在しないものとなる。

その場合、恐らく「川の上流」という言葉も同じく持っているような、どこまでが上流で、どこからを中流や下流として扱うのか、それが明確になっていないのと似たような感じで、「今日」という言葉は、もっと感覚的で曖昧なものとなり、私たちの生活の中に自然と溶け込んで使われていく言葉になった可能性もある。

しかし、現実には「今日」や「明日」という境目はそれなりに明確に決まっていて、世界的にはグリニッジ天文台だかどこかが「今日だよ」と言ったとたんに今日という日は強制的に始まってしまうことになっている。

不思議。

最近日本ではこの記事のように、オリンピックに向けてサマータイムの導入を検討していたりする。

東京五輪終わっても「サマータイム」恒久的運用へ 議員立法による成立を目指す : スポーツ報知

これはもちろん、私のような いちSE から見れば迷惑でしかない話であるのだけど、そもそも検討されているサマータイムの内容に大した興味も湧かないし、たとえそれで一時的に何時間か時間がずらされたところで、結局夏が過ぎればいつかは、『どこかの天文台が「今日だ」と言ったタイミングが今日である』ような日常に戻るのだろうなと思うと逆に感慨深くなってきたりもする。

個人的には、今日とか明日とか明後日とか、そんなのいつでも良くて、ただ今を生きている実感を持てればそれ以上の面倒なことはあまり考えたくないな、と思ったりもする。

でもそうはいかないのが世の中の難しい所。

時計や日付を意識せずに作れるシステムは稀。

SEとして生きている以上無駄なサマータイムなんていう制度はやめて、せいぜい「今日は8時のことを6時って呼ぼうぜ。俺らの頭の中だけな」とかそういう、小学生が休み時間とかに遊びでルールを考え、そして間違って指摘し合いながら笑っている感じの、平和な世の中になって欲しいなと思う今日このごろ。

今、『今日この頃』、という言葉にも「今日」が含まれていて絶望した。それも、今日。

物忘れとブログ記事

最近はてブのホッテントリを見ていて「あ、これは後でブログのネタにしよう」と思ってブックマークするのを止めることが多い。

でも実際には、家に帰る頃にはそんなことすっかり忘れてしまっていて、いざブログを書こうと思った時にそれを思い出せることは稀である。

これは仕事でも同じで、ちょっとした立ち話だからと思ってメモ帳などを持ち合わせずに人と話をし、たまたま口頭で「あの人に連絡しといて」というような小さな依頼を受けた時、私はかなりの高確率でその日にその連絡を行うことができない。

全く持って脳内から消えてしまうのではなく、表面に無い情報となってしまうため意識しようとしてもできないのである。

そして翌日、全然関係ない作業をしている時にふと思い出す。

「そういえば、昨日あんなこと言われてたな…」

この状況に気づいた時、私はなるべく早めに連絡作業を終わらせるか、もしくは永続的なToDoツール等にメモを残すなど、再度忘れないように対策をするよう心掛けている。

ただ、1回目の「聞いたけど忘れてしまった」という状況だけは今だに適切な対処ができていない。

会社にいる間常にスマホやメモ帳、PCなどを身に着けていれば良いのだが、たまたま全てを忘れたまま人と話してしまうこともある。

そんなことを長年繰り返した私は、最近になって「忘れてしまったものは忘れる程度の重要度だったのだ」と思うことにしている。

そもそも一度口約束しただけの内容を忘れずに居ることの方が難しい。

意外とそれでも仕事は進んでしまうのだが、人としてこれで良いのかどうかは自分の中でも判断が割れているところである。

本来であれば「忘れてはいけない内容だと感じた時点でメモを取るものを探す」というような対処が必要なのかもしれないが、それはおいおい、考えていってみようと思う。

緩い繋がりを持つ

固い繋がり、つまりお金のかかる繋がりは、そのお金が無くなれば簡単に切れてしまう。

緩い繋がり、普段からのとりとめない雑談で繋がっているような、そんな何気ない繋がりこそ、いつまでも残り続けていくのかもしれない。

なんてことを最近考えていたけど、「お金がかかる = 固い」という発想はどこから出てきたのだろうか。

固い、柔らかい、緩い、厳しい、温い、温かい。

「人間関係」に大して使われるために生まれたのではないであろう言葉が、人間関係を表すようになったのはいつからなんだろう。

特に結論の無い記事になってしまうのは、疲れているからだろうか。