まさおまっさお

おいまさおがんばれまさお

するか、しないか

「やるべきこと」を決めるのは簡単。

でも「やらないべきこと」を決めるのは難しい。

それは部屋の掃除にも似ている。「あった方が良い」は「なくても良い」むしろ「ない方が良い」と考え、思い切って捨てる勇気が必要である。

blog.craftz.dog

この記事は本当に素晴らしい。

自分は一人しかいない。大きな企業であれば無駄なところにも力を入れられるが、小さくなればなるほど目的を明確にして余計な要素を省く必要がある。

だから自分が1人でやる事はせめて、自分の本当にすべきことに専念できるよう動いていきたい。

では「私のすべきこと」は何だろう。

探しても見つからない。

だから「作る」しかない。

「絶対」はあるのか、ないのか

「絶対悪」という単語がある。

しかしこの言葉は、正確に言えば成り立たない。

なぜなら世の中に「絶対的な絶対」は存在しないからである。

「絶対」が存在すると証明することはいわゆる「悪魔の証明」のようなものであり、つまりは自己言及のパラドックス のようなジレンマが発生してしまうため、少なくとも今の人間の考える「論理」の範囲の中で説明を完結させることはできない。

ただ、制限として何らかの"絶対条件"が存在するとした上で語ってみると、この言葉を成り立たせることが可能になる。

それは例えば「男性は絶対に女性にとっての悪である」という"絶対条件"を定めた時、男性Aは「絶対に悪である」という理論は正しいと言えるということである。

つまり、「絶対」という言葉は、何らかの制限を明確に定めた場合にのみ存在し得る、いわば「仮定を前提とした単語」だと考えられる。


さて、そうだとすると、「絶対悪」という言葉がこの世界で初めて使われた時、その「絶対」という言葉にかかっていた「制限」というのは、一体どのような内容だったのだろうか。

最近、そんな妄想をしている時間が、結構楽しく感じる。

(冒頭の説明は正しいかどうか分からないが、雰囲気を伝えたかっただけなので許してほしい)

「最近感動したこと」を答えられるようになっていた

ひと昔前、私は就職活動を楽しんでいた時期がある。

それなりの企業を受け、それなりに選考を進めることができ、幸いなことに最終的には複数の会社から内定を貰った。

面接では様々なことを聞かれたが、私はその場を取り繕うのがそれなりに得意だったため、大抵の質問は間を置かずに答えることができた。

そんな私が、1つだけ返答に困った質問がある。

「今までで一番嬉しかったことは何ですか?」

とある会社の面接で、突然出てきた質問。

私は3名の面接官に対し、少し考える時間を貰えるようお願いした。

そして目をつぶり、必死に頭の中を検索してみる。

しかし、これといって「嬉しい」と感じた体験を思い出せない。

学生時代、授業ではIT系の資格勉強をさせられていた。

そのころの私は真面目に勉強していたので、試験にはいくつか合格したし、それなりに「嬉しい」感じはする。

でも、それは学生として、いわば「当たり前」な事だと認識していたし、それを「嬉しかったこと」に挙げるのは何だか違う気がした。

じゃあ一体、私は何を嬉しいと思っただろうか。

専門学校を遡り、高校、中学校、小学校と様々な記憶をたどってみるも、良さそうな回答は全く出てこない。


結局、私は30秒程うんうんと唸った末、仕方がないので資格取得のことを答えたのだが、正直自分の喋り方からは「本当に嬉しかった」という印象は全く伝えられなかったように思う。

実際、大して嬉しいと思わずに答えたのだから当たり前だ。

あの面接を受けて以降、私は「自分の感情を思い出すのって難しいんだな」という事実をしみじみと感じながら生きてきた。


さて、最近の私はどうだろう。

昨日は社内で集合研修があり、今まで喋ったことのない人とグループを組み、はじめに自己紹介をすることになった。

その時、講師から「自分の所属や名前と一緒に『最近感動したこと』を話してください」と言われ、内心ドキっとした。

もしかして、これはあの就活の時の質問と同じやつではないか。
だとしたら、私はこの問いに、ちゃんと答えることができるだろうか。

人知れず大きな不安を感じていたのだが、その不安は的中しなかった。

なんと、私が上の問題について考え始めた瞬間、脳の中から「最近感動したこと」がフッと沸き出てきたのである。


正直、かなり驚いた。

私は不安など感じる間すらなく、自分の過去の感情を、一瞬で探し出すことができるようになっていた。

これは学生の頃から比べると、とてつもない進化だ。

思い返してみれば、私は最近、日常の気づいたことを紙のノートやEvernoteに書き留める習慣がついている。

去年からはこのブログも始めたし、今まで全然読めなかった本も読めるようになり、1冊の本を読めば沢山の気づきメモがとれるようになった。

そう考えると、私の「毎日の記録量」は、学生時代とは比べ物にならないほど増えている。

おかげで、過去の自分に起きた様々なことを、以前よりも明確に覚え、そして思い出せるようになっているようである。


だからどう、という訳ではない。

でも私は、今の自分が「過去のことを思い出せる状態」であり、それがまるで卒業アルバムのように、昔を振り返って懐かしむことすらできるものだと気づき、この事実に一種の感動を覚えている。

なんだか明日からも、楽しく生きられそうな気がする。

壊れたデザイン1【不思議なキーボード】

毎月新聞 (中公文庫)

毎月新聞 (中公文庫)


昨日に引き続き、毎月新聞の話。

237ページに、私が衝撃を受けたタイトルの章がある。

これはできれば本で実際に見て欲しいので、ここでは紹介しない。

ただ、その中で説明されている大学のワークショップが非常に興味深かった。

そのワークショップというのは、グラフィックデザイナーを志す大学院生に対して行っているもので、「新しい表現を作るための様々な試み」というかなり特化した内容の講義なのですが、その回のテーマは"壊れている"ということから生まれる新しいデザイン、という、これまた特殊な課題なのでした。


"壊れている"

人間は基本的に、壊れていることを良いものとは捉えない。

しかし、だからこそ、その「壊れているもの」を意図的に作ることによって、常識に捕らわれない自由な視点で物事を見られるようになる。

これはとても面白そうな講義だ。

例えば、下の茄子の写真は、twitterで17万を超えるいいねを獲得している。



このような突然変異というのは、いわゆる「壊れている状態」であり、その壊れ方によっては人の心を大きく揺さぶる可能性を秘めているようである。


という訳で、私は今後気が向いた時に、「壊れたデザイン」を考えてブログにアップしていくことにした。

壊れたデザイン1【不思議なキーボード】




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元画像:無料イラスト素材倉庫



続く、といいな。

矛盾のような、矛盾ではないようなもの

毎月新聞 (中公文庫)

毎月新聞 (中公文庫)


今朝、私は毎月新聞を読んでいた。

そしてそこに書いてあった「壊れたデザイン」という大学の授業がとても衝撃的で、自分も作ってみたいと感じた。

www.sharots.com

まずは、このキーボードの写真を使って壊れたデザインを作ろう。

と思い立ったのち、とりあえず手元にあるキーボードの写真を撮ろうと掃除していた所、その過程で沢山の「矛盾」を見つけてしまい、デザインどころではなくなってしまった。

私が見つけた矛盾たち

  • キーボードのキーの間のホコリを取ろうとして、誤ってホコリを中に押し込んでしまった
  • キーの左側のホコリを取ろうとしたら、左隣のキーも一緒に沈んでしまい結局何も取れない
  • 上記の気づきをメモしようとして、掃除するためにUSBを抜いていたことに気づいた
  • 最近「どちらかと言えば他人と違うことが好きだ」と思っていたのに、今使っているキーボードは上記の画像と同じ"標準"配列だった
  • 「標準」と名乗っているのに、画像と全く同じではなくFnキーが抜けている


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モヤモヤドキドキワクワクする。これを何と表現すれば良いのか分からない。

ただ、毎月新聞で「クラクラする」と表現してあったものに近いのは確かだ。

  • 「分からない」と表現している癖に「〇〇に近い」と述べることができるなら、それは「分かっている」のではないだろうか

この通り、世の中には私の心を震わせる楽しいものが山ほど存在していて、この本は私にその事実を教えてくれた。

毎月新聞 (中公文庫)

毎月新聞 (中公文庫)


と、amazonでレビューを見ていたらまたもやモヤモヤに気づいてしまう。

  • 「佐藤先生のエスプリがちりばめられていて 楽しませていただきました」(全体は日本語なのになぜ無理やり英語を混ぜるのか)
  • 私は最近お金に余裕が無いのに、amazonで1円で売られている本を本屋で700円で買ってしまった


疑問は尽きず、それはつまり「私の楽しみも尽きない」ということであり、全くなんと幸せな世の中なのだろうと一人物思いにふけっていた。

逆に考えれば、20分もある。

あと20分で今日が終わる。

それは言い換えれば「あと20分もある」とも取れる状態。

つまり物事をどのように捉え、どんな言葉で表現するかは基本的に個人の判断に委ねられている。

私は今「20分以内に記事を書くか、それとも今日は諦めて寝るか」という二択を迫られ、せっかくなら頑張って書いてみることにした。

完成度は問わない。そうすれば残りの時間など気にする必要はない。

それが正解かどうかは分からない。


さて、今日はこの本を読んでいた。

考える練習帳

考える練習帳


この中にはこんなフレーズがある。

「常識や既成概念にとらわれている人」の最大、かつ根本的な原因は「とらわれていることに気づいていないこと」にあるからです。


つまり、自分が普段「当たり前」だと思っていること、もしくは「当たり前である」ことにすら気づいていない情報が存在し、その事実をどのようにして認識するか、といった話だ。

それには無知の知、いわゆる「自分が知らないことを認識する」という行為が必要であり、その為には自らの頭を使って「考える」ことが必要となる。

まだ読み途中ではあるが、この本は私にとても重要な気付きを与えてくれている。


私は去年、こんな記事を書いた。

www.masaoblue.com

正直に言うと、これを書く直前までの私は「考える」という行為が何なのかよく分かっていなかった。だから、その時点の私が「考える練習帳」を読んでも、何のことか分からなかったと思う。

そういう意味で、今、この時期にこの本を見つけられたことは、私にとって非常に良いタイミングだったのではないだろうか。


あと、去年読んだこの本。

「無知」の技法NotKnowing

「無知」の技法NotKnowing


この本では上記の「無知の知」に関連して、17世紀にパスカルが残した言葉が記されている。

知とは球体である。大きくなればなるほど、未知との接線も伸びる。


まさにその通りだと感じる。

単に「知を大きくする」ことだけが重要なのではなく、それに伴って「知らないことが沢山あるのだ」という認識を持つことも極めて大事なのだ。

最近私は本を沢山読んでいるが、それはあくまで「知を大きくする」行為しかできていない。

明日からの生活の中では、自分がどれだけ「知らないか」を意識しながら、考える練習をしていこうと思う。

以上、20分くらいでどうにか書ききることができた。

あとは私の家の時計が狂っていないことを祈りながら投稿するだけである。(2017/11/12 23:59)

Webサービスと掲示板について考えてみる

anond.hatelabo.jp

確かに、この記事は正しいように見える。

でもそうすると「掲示板ではないサービス」とはどんなものなのだろう。

「掲示板的サービス」の条件を簡単に定義するとしたら

  • 誰かが情報を記載し、残しておくことができる
  • それを後から、他の誰かが参照することができる


という事になるだろうか。


じゃあ、例えばcluster.のような「リアルタイムなコミュニケーション」を提供する場合はどうだろう。

これはいわゆる「会議室」のような感じで、その場にいる人同士のコミュニケーション手段だから、掲示板的サービスではない気がする。

MMORPGのような、他人と同じ時間軸で行うゲームも同じかもしれない。


また、Webサービスとは違うかもしれないが、ソードアートオンラインの世界のように「脳に直接信号を送り込む」という技術が開発されれば、また違った形のサービスができる。

つまり、受ける側が主体となって情報を得るのではなく、作る側が「自分の思ったことを相手の脳内に書き込む」という行為ができる可能性がある。

そうなるとこれは、掲示板的だとは言えないだろう。


受け手の主体性だけでいけば、Webサービスの「通知」という機能はどちらかと言えば掲示板的ではない動作だ。

設定で拒否することはできるが、基本的に受け手の意思に関係なく情報を送ることができる。


あと、Snapchatはどうだろう。

「すぐに消える掲示板」ともとれるが、情報が自分と相手の脳内にしか記録されないという視点で見れば「現実世界での会話」に近いように感じる。


こういった視点でサービスを分類してみると面白い。

その点で、上記の増田は非常に良い気づきを与えてくれる記事だった。

1つ思ったこととして、現在のWebサービス、つまり掲示板的サービスの「受け手の必要に応じて見に行ける」という点は非常に重要なポイントであり、「発信したい」という欲求が高まってきている世の中で受け手が情報過多にならない為には、現状必須の条件となる気がする。

今後、掲示板ではないサービスを作り出していくにあたっては、受け手となる人間の情報処理能力の向上が不可欠になるのかもしれない。